2023年12月20日水曜日

降る雪や明治は遠くなりにけり

 この句に対しては、ちょっと覚え間違いをしていました。この句は昭和58年に亡くなった俳人、中村 草田男(なかむら くさたお)の作で、昭和の時代を目の当たりにして、雪が降るという季節の節目に立ち、母校の小学校を尋ねた際に作った句だそうです。


 どういう勘違いをしていたかと言うと、これは伊藤博文が、中国に赴いたとき作った句だと思い込んでいました。 伊藤博文は明治の元勲でありますが、その精神は尊王攘夷の志士でありました。


 才能的にはそんなに大したことは無く、出身身分も低かったため、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎の影で奔走しまくると、いうような位置だったそうです。

 禁門の変の際、久坂玄瑞率いる過激派の長州志士が薩摩藩に撃退されました。

 当然長州藩は朝敵となり、その頃の攘夷藩士はやばいとなって、大阪藩邸をあげて逃亡を助けました。その時桂小五郎や高杉晋作は幕府からもう指名手配状態だったのですが、伊藤俊輔は小物として幕府から無視されているくらいでした。でも先輩や藩邸からとにかく逃げろと言われ必死で身分を隠して逃げ回ったそうです。 


 その後第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。年齢も若く必死で先輩についていったので長州志士としての、心構えを培って行っていたように思います。

 明治維新後は、山縣有朋(彼は戊辰戦争に赴きました。)とは違い、大久保利通とともに内政に奔走しました。自分の力が役に立つところはここだと思っていたのでしょう。ちゃんと自分の能力を把握していたことはすごいことです。高杉晋作には志士時代、結構腰ぎんちゃくのように付き従っていたので、自分にはこんなことはできないと悟っていたと言われています。

 彼は西南戦争に反対し、征韓論にも消極的でしたし、木戸孝允(桂小五郎)のメランコリック(鬱)にも辛抱強く付き合いました。幕末の志士が目指した日本はこうではないという彼自身の考えがあったと思います。

 しかし、彼には妥協をしてでも、実現したい理想がありました。

 1890年、憲法(旧日本帝国憲法)の発布です。もちろん不備な面もありますがとりあえず、大宝律令以来、1200年の時を経て日本の基本的法律が、まとまったのです。明治維新の際に、五カ条の御誓文として、基本方針は示されたのですが、この憲法の制定までの明治政府の施策は、すべて朝廷命令として施策されていました。

 この後この憲法を根底にして刑法や民法が作られていきます。日本が近代的な法治国家として第一歩を踏みだしたのがこの憲法です。明治の自由な雰囲気の中で、民間からの圧力もあったのですが、結局この憲法を制定した立役者は伊藤博文です。

 伊藤博文はうまいこと明治政府の元勲になったという批判もありますが、彼は維新以前に不法出国で海外を見て回ったという経験もありますし、開国派の尊王攘夷志士という特異な立場でありました。もちろんそんなのは長州志士以外には認められません。開国に踏み切った井伊直弼は水戸系の志士に桜田門外の変で切り殺されています。

 彼は自身が凡人であることを承知していたので、時期が来るまでじっと待っていたのでしょう。死地を通り抜けた政治センスは抜群でしたので、先輩たちが夢見た日本の基本法律の憲法成立に成功しました。

 憲法成立後も、色々あったのですが、これ以上戦争をやったら、財政的にもヤバいという事で、日清、日露戦争終結に奔走しています。天皇を神格化した軍を構築した山縣有朋󠄁とは大違いです。明治維新以降多くの志士たちは刀を置き政治にかかわろうとはしませんでした。でも彼は先輩たちが目指した国家を実現すべく努力を続けたのです。凡人でも志を持って努力すれば何事かはなしえるという事を彼は教えてくれています。

 その後も尽力し憲法下の選挙で4回内閣を、作っています。いやー、すごいですねー。野党を3回覆したんですからねー。まだ普通選挙の時代ではありませんでしたが、どんだけ信頼されてんだよ!

 まあ、明治維新の遺志を継ぐ思想を持っていたのが彼だけでしたから保守層からは人気があったんじゃないのかな?(推測)個人的には幕末に憤死した志士や西南戦争を起こした西郷隆盛より、この人を尊敬しております。伊藤博文は最後の最後まで実利的な考えを捨てず日本の将来を考えて政治を行っています。その後、政治家を引退し朝鮮総督となっています。

 そして1909年(明治42年)10月26日、清の吉林省浜江庁ハルビン市(現・中華人民共和国黒龍江省ハルビン市南崗区・道裏区)のハルビン駅で、大韓帝国の安重根により銃殺されました。暗殺事件というよりは、テロ事件ですね。発砲直後に安重根は ロシア警察によって逮捕されています。対象が、あまり良く分からなったらしく2名に連続に発砲しています。

 んー、安重根の動機については分からないというわけではないんですね。日本国内では「暗殺者が国の英雄とかないわー」とか馬鹿にされていますけど、当時、極東アジアで強国であった日本に対して反旗を翻した人物として英雄視するのも分かります。そんなこと言ったら幕末の攘夷志士たちはテロリストと暗殺者の集団だよ。でも1000年以上支配を続けてきた、中国王朝に反旗を翻した人物がいないのは何でかなーとか思ったりもします。

 撃たれたとき伊藤博文は「 3発あたった。相手は誰だ」と叫び「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれます。この頃は枢密院議長として、日本の急進派を抑え、朝鮮総督として朝鮮の近代化に腐心していました。これは作り上げられた伝説かもしれませんが、志半ばで凶刃に倒れることも常に覚悟していたのでしょう。今の政治家と覚悟が違いすぎます・・・。

 

 結局実現しなかったですけど、朝鮮半島を含め、東南アジア各国に対しては欧米列強の支配から逃れ、いずれは独立し日本の友好国になってもらうという考え方はあったんですよね。朝鮮なんか特例もいいとこで、李氏王朝の直系は皇族として待遇されていました。そうして、第二次世界大戦後、東南アジアの国々は独立戦争を勝ち抜いて、次々に独立していきました。もちろん、インドのような非抵抗主義なんて言うやり方もありでした。独立に当たっては、その当事国に残った旧日本軍兵士が奮戦したという逸話もあります。

 実際のところは良く分からないですけど、歴史的には、戦前、戦中、戦後にかけて一本筋の通ったすごい政治家が排出しています。今の政治家に対しては「爪の垢でも煎じて飲め」とか言いたいです。パーティ券問題とか、どんだけケツの穴が小さいんだよ!後藤象二郎(板垣退助)とか政府公金使いまくりだったからね。(ただし、私腹を肥やしたのではなく、日本の将来を彼なりに考えて違法な公金横領を公然とやっていました。)

 こういうことを考えると大物政治家は田中角栄が最後だったんじゃないかなと思います。

 なんつっても検察に特定された裏金だけで5億円ですよ。こんなこと現代の政治家にはできません。こないだ20万円でどっかの地方議員が捕まってましたからね。さらにすごいのは、この罪はすべて自分にあるという事で責任をすべて引き受けたことです。田中角栄の秘書は自殺しましたが、他の政治家には一切責任を転嫁しませんでした。これは、戦時内閣の東条英機の「この戦争の責任はすべて自分にある。」と言明して以来の快挙であります。内閣総理大臣で国内法で有罪判決を受けたのは彼だけです。中曽根さんとかは逃げまくりでしたからね。

 彼の唱えた日本列島改造論は今でも引き継がれて実行されています。高速道路網、新幹線網は今でも推進されています。どうせ税金は一般庶民的な感覚からすると無駄遣いされるに決まっているので、将来に向けた挑戦的な無駄遣いをしてもらいたいです。

 左翼政治家には全く期待していません。彼らはどちらかと言えば超自己中心的で、責任を取るようなことはしません。どういう方法をとっても、思想を後世に伝えるように生き延びるという戦略を取るからです。これは千数百年にわたる日本人の思想や倫理観とは相容れません。戦後の左翼政権は諸外国に媚びを売ったあげく、分裂するとか。話になりません。ちょっと天命論的ですが、阪神大震災も東日本大震災も左翼政党が政権を握った時に起きています。今度左翼政権が成り立ったら、第二次関東大震災とか、南海トラフ地震が起きるかも・・・。

 最後の志士である伊藤博文からはちょっと外れますが、戦前の政治家の覚悟はすごいです。5・15事件で殺された犬養毅首相は首相官邸において、全く逃げもせず、重傷を負いながら、


「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と強い口調で語ったと伝えられています。

 2・26事件では岡田啓介(内閣総理大臣)が狙われています。この人、実は海軍水雷艇部隊出身なんですよね。当時の魚雷はWW2の魚雷と違って、相手艦艇に肉薄して魚雷を発射するという、もうほとんど特攻に値する任務でした。 一応海軍軍人として覚悟はできていたようです。周辺を守っていた警察や軍によって一命をとりとめました。

 もちろん、2・26事件の責任をとって内閣総辞職をしましたが、昭和天皇は彼が責任を取るべく自決しないか、常に配慮を図っていたとか・・・。その後彼は、日米開戦に反対して、活動を続けたそうです。日米戦争が開始されたら、日本が負けるとちゃんと分析していたそうです。 

 平成以降はどうしようもないです。小泉首相は人気はありましたが、ロクなことをしていないです。不良債権の処理にちゃんと取組んだことくらいでしょうか、でもこれはちょっと公平性を欠いた処理でもありました。とりあえずこの問題に取り組んだ人々(竹中 平蔵氏など)はこの問題に真剣に取り組み、日本の不良債権の処理に明確な道筋を付けました。

 
 あと、経済と資本の自由化とか言って、国民の2極化をやってしまいました。もう一つは郵政民営化です。郵政は郵便事業が赤字だという大ウソをついて民営化してしまいました。現在でも郵便郵貯事業は黒字です。それで、公約である公務員の大削減をやりましたーとか言いました。あのなー、国民は赤字を垂れ流す、天下り財団の処理とか、縦割り行政の不合理を何とかしてほしかったんだけど・・。でも、バブル崩壊以降の日本行政においてそのカリスマ性において(虚像ではありましたが)希望を与え続けたのは評価されると思います。

 あとは第二次安倍政権ですかね。最近のことなのでこれから歴史的評価をされると思います。

 この内閣は最近では出色の出来だと思います。安倍総理は、最初の内閣であちこちに忖度をしまくって短期で潰されました。その後を引き継いだ麻生内閣もいろいろ批判を浴びて短期で潰されました。そのときこの二人は内閣総理大臣が本気になれば何でもやれると思い知ったのでしょう。

 第二次安倍内閣では、安倍総理は信念に従って結構強権を振るいました。今までの総理大臣ができなかったことを、政治生命をかけてやってのけたのです。対C国、K国、北国に向ってこれ以上は譲らないという方針を打ち出しましたし、日本の経済が上向くまでは絶対金融緩和は緩めないという事で日銀を抑え込みました。内閣のもう一人の立役者として、麻生副総理は対外および金融政策を安倍政権の施策に従って好き放題にやりました。総理大臣の全面的支援があれば担当大臣は好き放題にやれるという事はちゃんと分かっていたのでしょう。首相経験者がタッグを組んで内閣を組むなんて、これからもなかなか現れない内閣だったと思います。

 安倍首相の功績は大きいですが、残念なことに任期途中で、体調不良とか言って総理大臣を降りてしまいました。あのなー、戦前の総理大臣はみんな命を懸けて戦ってたんだよ、最後まで頑張れよとか言いたくなります。任期の最後頃には野党が森友問題でいきっていましたが、国民はみんな冷めた目で見ていました。今、C国の脅威にさらされているんだから、そんなの後にしろよとか思っていました。一応安倍政権は海保の特別強襲部隊を投入して、C国漁船問題を解決しました。もし、安倍政権が存続していれば、強権的に企業のC国撤退をやっていたかもしれません。キッシーには無理なことです。

 あとは菅官房長官かな。

 この人は、安倍政権に引き上げらるまで、党の内部だけではなく党外部からも批判を浴びていました。菅氏は政治的な定見を持っていなくて、この人を幹事長なんかにしてしまうと自民党は崩壊するとまで言われていました。しかし、政治的な力学によってこの人は、幹事長代行になり、安倍内閣の官房長官として、安倍内閣を陰から支え続けました。菅氏自身は結構清廉潔白な人で、ただ、目的のためにはそこそこ汚い手も使うという人でした。安倍内閣の不祥事について常に矢面に立って答弁をしていた姿を覚えている人も多いでしょう。

 強力なリーダーシップの下で才能を発揮できた人物だと思います。キッシーはこの人を使いこなすことができず、菅氏は政界を去りました。もったいねー。

 ここは日本国民の問題でもありますが、政権を担う第二の勢力を作り上げられなかったという事もあります。でも、野党にはろくな人材がいないという事もあります。あとは公明党かな。公明党は宗教団体の代表ですが、連立政権になってから大したことはしていません。得票率は高いので野党で頑張っていれば一大勢力を築けたかもしれないです。自民党は公明党と決別すべきなのかもしれません。

 今の対外情勢から考えると、キッシー政権は戦時内閣になる可能性があります。政権維持に必死になっているキッシーにそれができるのか?東条内閣みたいな決死の覚悟ができるのか?もう無茶苦茶不安です。共産党は論外なので、もう維新押しで行ってしまおうか?でも維新は国政に関して(大阪の地方政治は別)ろくな議員がいないんだよなー。


 


2023年12月12日火曜日

なんで左足ブレーキがダメなのか分からない!

  最近の自動車はATが当たり前です。アクセルを右足で、ブレーキを左足で操作できれば事故率が少なくなるのはちょっと考えただけでも分かります。実は現在のフォークリフトでは

 インチングペダルというものがあり、実質的にはブレーキペダルと同じ役割を果たしています。詳しくはこれを踏むと半クラッチ状態になります。旧型のMTフォークリフトではシフトをNに入れてちょっとダブルアクセル状態にして荷役作業をしなければならなかったのですが、これができたことで素人でも、リフト作業ができるようになりました。

 時々他の人のリフトを借りると、インチングペダルを多用しているなーって感じることがあります。クラッチのつながり具合がすごく悪いんですよね。まあ、そういう時はブレーキペダルを使うことでとりあえず急場をしのぐことができます 。

 

 
 ここからが実は本題です。なんでプリウスはPを明示していないんでしょうか?この辺はTOYOTAにはTOTOと同じようなつまらない意地が絡んでいるのでしょうか?
 
すいません、ちょっと間違えました・・・。
 
 フォークリフトは停止してエンジン回転数を上げる作業が必要です。でも自動車にはクレーンを載せているような車体以外にそのような機能は必要でしょうか?普段ダブルブレーキのリフトを扱って思うところです。 
 自動車に関しては左足のフットペダルにインチングペダルを採用しなくてもいいと思います。これはフォークリフトの特殊な作業に関連していることで、フツーに左側にもブレーキペダルを配置する、もしくは中央にブレーキペダルを配置するという事でいいと思います。

 左足ブレーキに関しては懐疑的な人もいますが、毎日インチングブレーキを多用している自分としては、ちょっと慣れたら左足ブレーキの方が有効だと断言できます。荷役作業でフォークリフトを全開で使用する場面があってもブレーキまたはインチングペダルをちゃんと踏んでいれば、リフトはその場から動きません。

 運転免許の切り替えの際に、老人による運転操作の誤りによる事故が増えていると教えてもらいました。現代のフォークリフトを扱った経験から言うと、ブレーキを左側に置きインチングペダルにしてしまえば、教官に教えてもらった事故は100%防げます。
 
  自販連のデータによると、2019年に販売された新車に占めるAT率は98.6%。ここまできたら、左足ブレーキを有効化した車を販売すべきですし、ブレーキとアクセルを右足で操作するという教習もやめるべきだと思います。
 免許取得においてもAT限定が8割を超えています。アクセルとブレーキを右足で扱うというのはもう新世紀には合っていない悪習だとしか言えません。

 じゃあなぜ左足ブレーキが推奨されていないのかですが教習所の教えではMT車の特性にかかわるそうです。MT車は運転ミスをした場合大抵(エンストを起こして)止まってしまいます。パニックブレーキで両足でペダルを踏むと、クラッチペダルを踏みこむことになり、車は停止する方向に行きます。 それからペダルから脚を離すと速度が落ちているので、エンジンはエンストします。エンストしたらクラッチを切らないと車は動かせなくなります。逆にAT車は現在のところパニックブレーキで間違えるとロケットスタートでぶっ飛びます。やばいです。
 
 老人運転者講習で何を教えているかまでは知りませんが、自動車産業の巨頭である日本がこのムーブメントを起こせたら、今以上に世界を牛耳ることができるはずです。
 
 多分色々利権にかかわることなのでしょうが、 こういう利権にかかわる人たちって自分や家族が危険な目に合うってことは無いって思ってることが厄介なんですね。それで、自分たちの身に災難が降りかかってきたら、他人のせいにしたりします。最悪だー!

リニアモーターカー南アルプス横断路線について

 とりあえず、JRの計画線を示しておきます。

 東海道新幹線は旧東海道本線がそうであったように既にダイヤが逼迫状態になっております。高速道路の方は新東名、名古屋湾岸、新名神などでバイパス路線を作れましたが、鉄道の方はそう簡単にはいきません。

 というわけで、新たな交通システムとしてリニア新幹線が浮上しています。それで今静岡県が反対しています。大井川の水源がトンネル工事でやられる可能性があるからです。実は前例があって東海道線の丹那トンネル(1934年開通)は怖ろしいほどの地下水を排除して建設されました。その時に地下水の流れが変わったらしく、上部の丹那盆地は大きく地下水位が下がってしまい水不足に陥りました。当時としては技術的にもどうしようもなく、丹那盆地は牧畜などへの産業転換を余儀なくされました。 

 じゃあ今の技術だったら大丈夫なのか?そんなのやってみないと分からないと思います。JRは地下水を大井川に戻す計画を立てていますが、上手くいくかはやってみないとわからないんですよねー。

 リニア新幹線は速度が速いのでできるだけ直線的に建設する必要があります。つまり、新幹線以上に地元の意向なんて気にしているわけにはいかないと思います。システム自体はほぼ完成しているので、あとはどうやって建設するかという問題だけです。 

 ここで明らかに分かるのは静岡の平野部を通すのは問題があるという事ですね。土地買収だけで膨大な費用が掛かりますし、騒音対策も深刻です。新幹線開通当時は問題はなかったのですが、線形が悪く、車両の高速化がされても300㎞/h以上出せないところが多々あります。特に伊豆半島を横断する場所に余裕がありません。ここには北側に高速道、南側に鉄道のトンネルが集中しています。


 それで南アルプスをぶち抜くという壮大な計画なんですが、もう最初から難工事が予想されています。(多分工事関係者は確実に把握していると思います。)なにしろフォッサマグナをぶち抜く計画だからです。

 フォッサマグナの領域内では、もう断層が滅茶苦茶になっていて、過去の高速道路トンネル建設でひどい目にあってます。土圧でシールドマシンが圧壊したり、一部区間がどうしても突破できなくて線形を大幅変更したりしているんですよね。自動車道路でしたら多少線形を変更しても何とかなりますが、リニアは線形の変更は難しいので、どうなるんだろう?

 世界的に有名なトンネルと言えば、スイスのゴッダルトベーストンネル、ドーバー海峡横断トンネルが上げられます。

 

 でもこれらは安定したヨーロッパの大陸に掘られたトンネルなのです。ヨーロッパアルプスは、地層が複雑とはいえ褶曲山脈で活断層がありません。ドーバー海峡に至っては一様な砂礫層を掘っていくだけでした。シールドマシン工法が全面的に使われ、川崎重工なんかはドーバーで世界記録なんか樹立したりしてます。

 日本のトンネルの場合そんなに簡単に行きません。地下にどんな活断層や軟弱地盤が隠れているか実際に掘ってみないと分からないからです。前述しましたが、シールドマシンが土圧に負けて圧壊し、在来工法でなんとか防いで、シールドマシンを分解して脱出させたという事例もあります。また、あまりにも岩盤が固すぎて毎日シールドマシンの切削刃を交換したという事もあるのです。(この辺は土木系YOU TUBEが詳しいので見てもらえるといいと思います。)  

 もちろん事前に地質調査はしますが、実際トンネル工事をしてみないと深いところは分からないので、日本では工事現場の最先端で地質状態を確認しながら掘っていくという方法をとります。 

 青函トンネルに至っては着工(1961年)から使用開始(1987年)までなんと26年かかってます。

 
 途中に活断層が無数にあり、現代のシールド工法でもどこまで行けるのかは分かりません。先人の努力はすごいです。ちょっと付け加えると距離の短い関門トンネルも大きな課題を抱えています。湧水の発生がものすごく、500t/日の排水が行われています。関門海峡トンネルは戦前の計画なので安全保障上トンネルにしたのですが、現在では橋梁や新たに深い場所にトンネルを掘るという案も浮上しています。
 
 関門海峡は見たことある人には分かると思いますが、泳いで渡れるんじゃねというくらい狭いです。しかしその海底は軟弱地盤で埋め尽くされているそうです。アクアラインのように沈埋工法もありかと思いますが、潮流が速く、下手をすると海底地盤が流される可能性もあるとのこと。
 
 日本のような複雑な地下構造をもつ場所はトンネル建設に予想外の難題をつきつけられる可能性もあるのです。もちろん現代の工事でも「これは無理やー!」とあきらめた事例も多々あります。生きているうちにリニアに乗れたらいいなとか気長に待つのもいいかと思います。

2023年12月6日水曜日

Operation Tomodachi (for friends)

   2011年3月11日に日本は日本海溝の広域で発生した地震で多大な被害を受けました。地震自体も(M9.5)かなりのものでした。1995年の阪神大震災以降、耐震建築の普及により、地震直接の被害は少なかったのですが、未曽有の津波の被害を受け、東北から関東北部に多大な被害を受けました。

 一応日本では、台風の被害が多いのでその当時には3m以下の高波には完全に海岸線を守る防波堤が完成していたのですが、数百年に1度と言われる津波の威力にはなすすべもありませんでした。波高の高いところでは20m以上にもなりました。


 被害のひどいところでは、自治体の中心の役所自体が流されてしまい、どうしようもないところも多くありました。
 福島第一原子力発電所は、日本で最初期に開発された原子力発電所で、10m以上の津波の被害をもろに受け、電源喪失でメルトダウン事故を起こしました。

 一応その後に開発された、第一原子力発電所に近い福島第二原子力発電所ではシャットダウンに成功しており問題はありませんでした。さらに東北電力が管轄する最新の女川原子力発電所では20mの津波に襲われたのにもかかわらず、シャットダウンに成功しており、電源喪失を免れました。
 日本政府の対応は少し遅れました。広範囲に被害が拡散していたので、情報収集が十分でなく、迅速な行動ができなかったのです。これはある程度仕方のないことだと思います。東日本の海岸線のほとんどの地域で津波の被害を受けていて、津波の発生から被害が発生するまで時間的余裕はありませんでした。北海道から東京湾まで津波の被害を受けていました。

 一番まずかったのは、災害救助の主力である、陸軍の駐屯地が津波の被害をもろに受けた事です。出動態勢を整えたところで、津波に襲われる駐屯地もあったようです。空軍の松島基地では同基地に駐屯する米軍に避難勧告をするのが精いっぱいで、保有機も滑走路も津波に流されました。

 三沢などの空軍基地では地震発生直後から被害状況の確認のために、スクランブル発進で偵察機を発進させていました。被災映像とともに隊員たちの悲壮な事実を伝える音声が今でも耳に残っています。

 日本海軍は即座に行動を開始しました。被災地である東北地方に展開するには海上だと数時間はかかるからです。軍法会議にかけられる可能性も無視して、当時の現場の最高司令官と地域最高司令官は、行動可能な艦艇は即座に出港せよとの命令を下したそうです。横須賀港からは5分おきに出港する船舶が相次いだそうです。目的は被災者の救助です。支援は後回しにして、リミットの72時間以内にできるだけ被災者の救命にあたる心がけで出撃しました。

 
 日本軍は長年実戦をしてきていないので、大したことは無いと国民にも思われていました。しかし、軍幹部は日本国民を守るべく、援助要請前に動いていたのです。これは、完全に違法なのですが、政府も国民もこの軍の行動について、後で一切批判をしていません。
 
 日本政府はこの後、国防上どうしても必要な軍だけを残し、10万人の軍を招集し事態解決を図りました。警察、消防、海上保安庁も全面的に協力をしました。
 しかし、災害の規模が大きすぎて、日本人の自助努力だけではどうにもなりませんでした。そこで、思わぬ方向からの支援があったのです。
 
 それはアメリカ軍の Operation Tomodachi でした。3.11の災害発生時点で既に在日アメリカ軍は行動を開始しており、3月11日の当日中にアメリカ政府は日本に支援を申し入れ、日本政府の要請により、支援が開始されています。
 
  米韓合同演習のために西太平洋を航行中であったロナルド・レーガン空母打撃群は、本州東海岸域に即座に展開、震災翌々日の3月13日には海上自衛隊災害派遣部隊との震災対応に関する作戦会議を実施をしました。
 この作戦では、アメリカ海軍・海兵隊・空軍が連携し、統合軍の形態を執って活動しています。作戦には2万4000人の将兵、190機の航空機、24隻の艦艇が参加しました。3月25日からは在ハワイの常設司令部組織JTF-519が横田基地へと移動し、統合支援部隊(Joint Support Force)として指揮を執ったそうです。
 空母打撃群は自らの艦載ヘリコプター(HS-4部隊)のみならず、自衛隊のヘリコプターのための洋上給油拠点として運用され、空母「ロナルド・レーガン」の将兵からは毛布やセーターなど1,000着以上の寄付が行われているほか、強襲揚陸艦エセックスの乗員からは、玩具が寄付されました。
 
 厚木海軍飛行場を基地にしている海軍航空隊のヘリコプターは、津波発生直後から捜索救難活動に投入され、その後は食料などの救援物資を運んでいます。

 ミサイル駆逐艦「マッキャンベル」および「カーティス・ウィルバー」の艦載ヘリコプターは、地震発生後、房総半島において捜索救難活動に投入されています。


 揚陸指揮艦「ブルー・リッジ」は、地震発生後、寄港先のシンガポールにて急遽予定を変更し、救援物資を積載して日本へ向けて出航しています。



 ドック型揚陸艦「トーテュガ」は、北海道から陸上自衛隊の車両90台・人員500名を乗せて本州へ向けて輸送を実施しました。


 マレーシアに在泊していた強襲揚陸艦「エセックス」とドック型揚陸艦「ジャーマンタウン」は、第31海兵隊遠征隊を乗艦させて、途中洋上にて貨物弾薬補給艦「マシュー・ペリー」から救援物資を受け取りつつ北上しました。 

 福島第一原子力発電所からの放射能が懸念されたため、当初日本海に展開していましたが、後に津軽海峡を抜け太平洋岸へ機動しました。エセックス艦内で行われたインタビューに対し、ジェフリー・ジョーンズ海軍准将は「先遣隊も今回の部隊も皆、志願者だ。艦内放送で呼びかけたが、定員を確保するのに、10分もかからなかったよ」と、その士気の高さを語っています。
 
  アメリカ軍が総力を挙げて支援したのは、北日本のハブ空港の仙台空港の復旧でした。まずは、航空自衛隊の松島基地を最低限の管制を行えるようにしました。
 
 そして、陸上から仙台空港に向かい、機能回復まで6カ月はかかると思われていた仙台空港を
救援拠点として活用すべく、アメリカ軍の即応態勢でもって、短期間に復旧したのです。

 ちょっと大げさですが、日本は第二次世界大戦の敗戦で、アメリカ軍のすごさを体験しました。大戦を知らない我々の世代において、アメリカ軍のすごさを実感させる出来事でした。

 この作戦により、個々に少数孤立した、避難所への物資の供給が迅速に行われました。日本軍だけではそこまでできたかどうか分かりません。
 
 Operation Tomodachi に対しては日本はささやかなお礼しかできませんでした。  Operation Arigato です。被災された方々がアメリカ軍の援助に対し、航空機侵入海岸線に”ありがとう”と流木で書いたのです。

 日本人のほとんどは Operation Tomodachi  によって示されたアメリカ軍の好意を忘れてはいません。誠意をもって対応されたら、誠意をもって返すのは日本人として、いや、先進国に住まう人間であればでは当たり前のことでしょう。
 
 第二次世界大戦中、太平洋は死の海でした。その後アメリカと、日本で同盟を結び、太平洋は平和な海になりました。太平洋に面する国家も多く協力してくれています。個人的な意見ですが、太平洋の平和を乱す国家に対しては、協力して太平洋の平和を守っていくべきだと思っています。
 
PS. 本来なら ここで台湾が行なってくれた厚い援助に対しての感謝を述べるべきなんですが、安全保障上の観点からこの出来事を見ています。申し訳ありません。