この句に対しては、ちょっと覚え間違いをしていました。この句は昭和58年に亡くなった俳人、中村 草田男(なかむら くさたお)の作で、昭和の時代を目の当たりにして、雪が降るという季節の節目に立ち、母校の小学校を尋ねた際に作った句だそうです。
どういう勘違いをしていたかと言うと、これは伊藤博文が、中国に赴いたとき作った句だと思い込んでいました。 伊藤博文は明治の元勲でありますが、その精神は尊王攘夷の志士でありました。
才能的にはそんなに大したことは無く、出身身分も低かったため、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎の影で奔走しまくると、いうような位置だったそうです。
禁門の変の際、久坂玄瑞率いる過激派の長州志士が薩摩藩に撃退されました。
当然長州藩は朝敵となり、その頃の攘夷藩士はやばいとなって、大阪藩邸をあげて逃亡を助けました。その時桂小五郎や高杉晋作は幕府からもう指名手配状態だったのですが、伊藤俊輔は小物として幕府から無視されているくらいでした。でも先輩や藩邸からとにかく逃げろと言われ必死で身分を隠して逃げ回ったそうです。
その後第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。年齢も若く必死で先輩についていったので長州志士としての、心構えを培って行っていたように思います。
明治維新後は、山縣有朋(彼は戊辰戦争に赴きました。)とは違い、大久保利通とともに内政に奔走しました。自分の力が役に立つところはここだと思っていたのでしょう。ちゃんと自分の能力を把握していたことはすごいことです。高杉晋作には志士時代、結構腰ぎんちゃくのように付き従っていたので、自分にはこんなことはできないと悟っていたと言われています。
彼は西南戦争に反対し、征韓論にも消極的でしたし、木戸孝允(桂小五郎)のメランコリック(鬱)にも辛抱強く付き合いました。幕末の志士が目指した日本はこうではないという彼自身の考えがあったと思います。
しかし、彼には妥協をしてでも、実現したい理想がありました。
1890年、憲法(旧日本帝国憲法)の発布です。もちろん不備な面もありますがとりあえず、大宝律令以来、1200年の時を経て日本の基本的法律が、まとまったのです。明治維新の際に、五カ条の御誓文として、基本方針は示されたのですが、この憲法の制定までの明治政府の施策は、すべて朝廷命令として施策されていました。
この後この憲法を根底にして刑法や民法が作られていきます。日本が近代的な法治国家として第一歩を踏みだしたのがこの憲法です。明治の自由な雰囲気の中で、民間からの圧力もあったのですが、結局この憲法を制定した立役者は伊藤博文です。
伊藤博文はうまいこと明治政府の元勲になったという批判もありますが、彼は維新以前に不法出国で海外を見て回ったという経験もありますし、開国派の尊王攘夷志士という特異な立場でありました。もちろんそんなのは長州志士以外には認められません。開国に踏み切った井伊直弼は水戸系の志士に桜田門外の変で切り殺されています。
彼は自身が凡人であることを承知していたので、時期が来るまでじっと待っていたのでしょう。死地を通り抜けた政治センスは抜群でしたので、先輩たちが夢見た日本の基本法律の憲法成立に成功しました。
憲法成立後も、色々あったのですが、これ以上戦争をやったら、財政的にもヤバいという事で、日清、日露戦争終結に奔走しています。天皇を神格化した軍を構築した山縣有朋󠄁とは大違いです。明治維新以降多くの志士たちは刀を置き政治にかかわろうとはしませんでした。でも彼は先輩たちが目指した国家を実現すべく努力を続けたのです。凡人でも志を持って努力すれば何事かはなしえるという事を彼は教えてくれています。
その後も尽力し憲法下の選挙で4回内閣を、作っています。いやー、すごいですねー。野党を3回覆したんですからねー。まだ普通選挙の時代ではありませんでしたが、どんだけ信頼されてんだよ!
まあ、明治維新の遺志を継ぐ思想を持っていたのが彼だけでしたから保守層からは人気があったんじゃないのかな?(推測)個人的には幕末に憤死した志士や西南戦争を起こした西郷隆盛より、この人を尊敬しております。伊藤博文は最後の最後まで実利的な考えを捨てず日本の将来を考えて政治を行っています。その後、政治家を引退し朝鮮総督となっています。
そして1909年(明治42年)10月26日、清の吉林省浜江庁ハルビン市(現・中華人民共和国黒龍江省ハルビン市南崗区・道裏区)のハルビン駅で、大韓帝国の安重根により銃殺されました。暗殺事件というよりは、テロ事件ですね。発砲直後に安重根は ロシア警察によって逮捕されています。対象が、あまり良く分からなったらしく2名に連続に発砲しています。
んー、安重根の動機については分からないというわけではないんですね。日本国内では「暗殺者が国の英雄とかないわー」とか馬鹿にされていますけど、当時、極東アジアで強国であった日本に対して反旗を翻した人物として英雄視するのも分かります。そんなこと言ったら幕末の攘夷志士たちはテロリストと暗殺者の集団だよ。でも1000年以上支配を続けてきた、中国王朝に反旗を翻した人物がいないのは何でかなーとか思ったりもします。
撃たれたとき伊藤博文は「 3発あたった。相手は誰だ」と叫び「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれます。この頃は枢密院議長として、日本の急進派を抑え、朝鮮総督として朝鮮の近代化に腐心していました。これは作り上げられた伝説かもしれませんが、志半ばで凶刃に倒れることも常に覚悟していたのでしょう。今の政治家と覚悟が違いすぎます・・・。
結局実現しなかったですけど、朝鮮半島を含め、東南アジア各国に対しては欧米列強の支配から逃れ、いずれは独立し日本の友好国になってもらうという考え方はあったんですよね。朝鮮なんか特例もいいとこで、李氏王朝の直系は皇族として待遇されていました。そうして、第二次世界大戦後、東南アジアの国々は独立戦争を勝ち抜いて、次々に独立していきました。もちろん、インドのような非抵抗主義なんて言うやり方もありでした。独立に当たっては、その当事国に残った旧日本軍兵士が奮戦したという逸話もあります。
実際のところは良く分からないですけど、歴史的には、戦前、戦中、戦後にかけて一本筋の通ったすごい政治家が排出しています。今の政治家に対しては「爪の垢でも煎じて飲め」とか言いたいです。パーティ券問題とか、どんだけケツの穴が小さいんだよ!後藤象二郎(板垣退助)とか政府公金使いまくりだったからね。(ただし、私腹を肥やしたのではなく、日本の将来を彼なりに考えて違法な公金横領を公然とやっていました。)
こういうことを考えると大物政治家は田中角栄が最後だったんじゃないかなと思います。
なんつっても検察に特定された裏金だけで5億円ですよ。こんなこと現代の政治家にはできません。こないだ20万円でどっかの地方議員が捕まってましたからね。さらにすごいのは、この罪はすべて自分にあるという事で責任をすべて引き受けたことです。田中角栄の秘書は自殺しましたが、他の政治家には一切責任を転嫁しませんでした。これは、戦時内閣の東条英機の「この戦争の責任はすべて自分にある。」と言明して以来の快挙であります。内閣総理大臣で国内法で有罪判決を受けたのは彼だけです。中曽根さんとかは逃げまくりでしたからね。彼の唱えた日本列島改造論は今でも引き継がれて実行されています。高速道路網、新幹線網は今でも推進されています。どうせ税金は一般庶民的な感覚からすると無駄遣いされるに決まっているので、将来に向けた挑戦的な無駄遣いをしてもらいたいです。
左翼政治家には全く期待していません。彼らはどちらかと言えば超自己中心的で、責任を取るようなことはしません。どういう方法をとっても、思想を後世に伝えるように生き延びるという戦略を取るからです。これは千数百年にわたる日本人の思想や倫理観とは相容れません。戦後の左翼政権は諸外国に媚びを売ったあげく、分裂するとか。話になりません。ちょっと天命論的ですが、阪神大震災も東日本大震災も左翼政党が政権を握った時に起きています。今度左翼政権が成り立ったら、第二次関東大震災とか、南海トラフ地震が起きるかも・・・。
最後の志士である伊藤博文からはちょっと外れますが、戦前の政治家の覚悟はすごいです。5・15事件で殺された犬養毅首相は首相官邸において、全く逃げもせず、重傷を負いながら、
「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と強い口調で語ったと伝えられています。
2・26事件では岡田啓介(内閣総理大臣)が狙われています。この人、実は海軍水雷艇部隊出身なんですよね。当時の魚雷はWW2の魚雷と違って、相手艦艇に肉薄して魚雷を発射するという、もうほとんど特攻に値する任務でした。 一応海軍軍人として覚悟はできていたようです。周辺を守っていた警察や軍によって一命をとりとめました。
もちろん、2・26事件の責任をとって内閣総辞職をしましたが、昭和天皇は彼が責任を取るべく自決しないか、常に配慮を図っていたとか・・・。その後彼は、日米開戦に反対して、活動を続けたそうです。日米戦争が開始されたら、日本が負けるとちゃんと分析していたそうです。
平成以降はどうしようもないです。小泉首相は人気はありましたが、ロクなことをしていないです。不良債権の処理にちゃんと取組んだことくらいでしょうか、でもこれはちょっと公平性を欠いた処理でもありました。とりあえずこの問題に取り組んだ人々(竹中 平蔵氏など)はこの問題に真剣に取り組み、日本の不良債権の処理に明確な道筋を付けました。
あと、経済と資本の自由化とか言って、国民の2極化をやってしまいました。もう一つは郵政民営化です。郵政は郵便事業が赤字だという大ウソをついて民営化してしまいました。現在でも郵便郵貯事業は黒字です。それで、公約である公務員の大削減をやりましたーとか言いました。あのなー、国民は赤字を垂れ流す、天下り財団の処理とか、縦割り行政の不合理を何とかしてほしかったんだけど・・。でも、バブル崩壊以降の日本行政においてそのカリスマ性において(虚像ではありましたが)希望を与え続けたのは評価されると思います。
あとは第二次安倍政権ですかね。最近のことなのでこれから歴史的評価をされると思います。
この内閣は最近では出色の出来だと思います。安倍総理は、最初の内閣であちこちに忖度をしまくって短期で潰されました。その後を引き継いだ麻生内閣もいろいろ批判を浴びて短期で潰されました。そのときこの二人は内閣総理大臣が本気になれば何でもやれると思い知ったのでしょう。第二次安倍内閣では、安倍総理は信念に従って結構強権を振るいました。今までの総理大臣ができなかったことを、政治生命をかけてやってのけたのです。対C国、K国、北国に向ってこれ以上は譲らないという方針を打ち出しましたし、日本の経済が上向くまでは絶対金融緩和は緩めないという事で日銀を抑え込みました。内閣のもう一人の立役者として、麻生副総理は対外および金融政策を安倍政権の施策に従って好き放題にやりました。総理大臣の全面的支援があれば担当大臣は好き放題にやれるという事はちゃんと分かっていたのでしょう。首相経験者がタッグを組んで内閣を組むなんて、これからもなかなか現れない内閣だったと思います。
安倍首相の功績は大きいですが、残念なことに任期途中で、体調不良とか言って総理大臣を降りてしまいました。あのなー、戦前の総理大臣はみんな命を懸けて戦ってたんだよ、最後まで頑張れよとか言いたくなります。任期の最後頃には野党が森友問題でいきっていましたが、国民はみんな冷めた目で見ていました。今、C国の脅威にさらされているんだから、そんなの後にしろよとか思っていました。一応安倍政権は海保の特別強襲部隊を投入して、C国漁船問題を解決しました。もし、安倍政権が存続していれば、強権的に企業のC国撤退をやっていたかもしれません。キッシーには無理なことです。あとは菅官房長官かな。
この人は、安倍政権に引き上げらるまで、党の内部だけではなく党外部からも批判を浴びていました。菅氏は政治的な定見を持っていなくて、この人を幹事長なんかにしてしまうと自民党は崩壊するとまで言われていました。しかし、政治的な力学によってこの人は、幹事長代行になり、安倍内閣の官房長官として、安倍内閣を陰から支え続けました。菅氏自身は結構清廉潔白な人で、ただ、目的のためにはそこそこ汚い手も使うという人でした。安倍内閣の不祥事について常に矢面に立って答弁をしていた姿を覚えている人も多いでしょう。強力なリーダーシップの下で才能を発揮できた人物だと思います。キッシーはこの人を使いこなすことができず、菅氏は政界を去りました。もったいねー。
ここは日本国民の問題でもありますが、政権を担う第二の勢力を作り上げられなかったという事もあります。でも、野党にはろくな人材がいないという事もあります。あとは公明党かな。公明党は宗教団体の代表ですが、連立政権になってから大したことはしていません。得票率は高いので野党で頑張っていれば一大勢力を築けたかもしれないです。自民党は公明党と決別すべきなのかもしれません。
今の対外情勢から考えると、キッシー政権は戦時内閣になる可能性があります。政権維持に必死になっているキッシーにそれができるのか?東条内閣みたいな決死の覚悟ができるのか?もう無茶苦茶不安です。共産党は論外なので、もう維新押しで行ってしまおうか?でも維新は国政に関して(大阪の地方政治は別)ろくな議員がいないんだよなー。