2016年12月30日金曜日

バーナー買ってしまった

 ああ、またつまらぬものを買ってしまった....。 

 除草用のバーナーではなく、トーチの方です。会社で時々使うので、家にも一つ欲しかったんだよね。15年前の発酵しきった鶏糞を実家に返したので、ホームセンターには発酵鶏糞を買いに行ったはずなのに、なぜかこれを買ってしまいました。1600円、高いのか安いのか不明です。

 普通の発酵鶏糞が15kgで100円(税抜き)、ペレット加工したのが270円で、どちらにしようか迷っているうちに雨が降ってきたので、中に入って工具のところをうろうろしてました。園芸用品のところはヤバいので避けていたのですが、気がついたらカゴに入っておりました。

 とりあえず組む。ボンベにトーチ付けるだけ。数秒で終了。
 もう夜だけど、朝まで待てません。ちょっとつけてみよう。点火装置がついているので楽です。会社のは点火装置ないのでライター必須なのです。
 音がうるさいので、火を大きくすることはできません。これで、最小になります。最小でも火が結構長いです。これはかなりパワーがあるのでは?
 あっというまに火口が真っ赤になりました。長時間使用できるかな?ちょろっと草を焼いてみました。近所迷惑だし、元消防団員が火事を出すわけにもいかないので、これでもうやめておきます。
朝、試しに草を焼いてみました。こんなんでいいのかなあ。 

2016年12月29日木曜日

唐入り(文禄・慶長の役)

 日韓中共同研究では「壬辰戦争」と呼ぶらしいです。でも、Kの国では「壬辰倭乱」というのが一般的だそうです。乱だと内乱っていう意味になるから、侵略戦争じゃないよね。

 そういうくだらないことはどうでもよくて、この戦争は豊臣秀吉の明への侵攻計画の一環として始まりました。ちょっと調べるまでは、日本軍の悪癖で補給線を伸ばし切って、停滞したのかと思っていましたが、なにこれ、全然負けてないじゃん。

 文禄の役では局地戦で苦戦に陥っても、体制整えて反撃して、快勝の連続です。大将が討ち取られるような負け方は1回もしていません。釜山から高麗首府の漢城府(開城市)まで直線380kmを21日間で撃破、その後各方面隊に分かれて、朝鮮各道を制覇、朝鮮水軍も鼻緒戦で撃破して、最終の撤退まで、対馬海峡の制海権はとったまま、残った朝鮮水軍は船舶鹵獲のために各個撃破しています。李舜臣が大勝したみたいになってるけど、奇襲戦で何度か輸送船団に損害を与えていますが、水陸併用戦法に変えた豊臣軍に粉砕されてます。あとは1回も勝てていません。
 
 明軍と対峙しても情勢は変わらず、勝ち戦ばかりです。明軍の詭計にも速攻で対処し、明の遠征軍がほぼ全滅の憂き目にあっています。明軍の漢城府食糧庫焼き討ちで文禄の役の停戦に入っていますが、これ、基本的に秀吉の調子が悪くて朝鮮出陣できなくなったからだよね。国内情勢が不安定なため、豊臣軍は明と停戦協定を結び、一旦釜山まで引きます。
 翌年の慶長の役では前年度の経験を活かしさらに快進撃しています。漢城を明への侵攻拠点として、城郭の整備まで始めましたが、途中で秀吉が亡くなったため五大老から全面撤退命令が出ます。

 明と高麗は明本国軍も加え追撃戦を行いますが、全く勝てていません。反対に凄まじい損害を出しています。戦国武将たちの撤退戦が上手すぎます。最後に対馬海峡での海峡封鎖を明・朝鮮水軍が行います。島津水軍の正面突破はかなり苦戦しましたが最終的に李舜臣を含む多数の水軍幹部を討ち取り、制海権を確保しています。あと、詳しいことはwikiを見てください。

 当時の戦国武将たちが世界最強だったことは一応知ってはいましたが、ここまで強いとは思ってませんでした。これだけ戦えているところを見ると、兵糧と水の確保もちゃんとやっていたに違いありません。それがどれだけ重要か戦国武将たちは身に染みて知っていたと思います。大日本帝国陸軍みたいなマヌケなことはしていないでしょう。
 この戦役はwikiに記されている通り、勝者のいない戦争でした。豊臣軍は、明の攻略という戦略目標を達成できず、全面撤退命令によって、領地も確保できませんでした。明軍は戦術的に完敗した挙句、戦費があまりにかさんだため、国が崩壊しました。高麗軍は国中で蹂躙され、領土が確保できたのは豊臣軍が自発的に全面撤退したという理由だけです。

 歴史にifはないですが、もし、秀吉にちゃんとした後継者がいたら、間違いなく明の攻略は成功していたでしょう。少なくとも、朝鮮半島と大陸の一部は手中におさめていたと思います。
 さて、ここからが本題です。豊臣軍は朝鮮で残虐な行為を数多く行ったとされていますが、まあ、大体は本当のことだと思います。 なにしろ、そういうことは、内戦が100年以上続いた日本国内では当たり前に行われていたことばかりなのです。長い平穏に慣れた、高麗の人たちはびっくりしたことでしょう。付け加えておくと、おそらく明軍も朝鮮軍も似たようなことをある程度はしていたはずです。当時の戦争はそんなものでした。

 それから、この戦争の責任は全面的に豊臣秀吉公にあります。彼がもし、こんなことを思いつかず内政に傾注していれば、この戦役はあり得ませんでした。この戦役は日本にとっても大きな損失でありました。それで、高麗、明の人たちに代わって、当時の征夷大将軍徳川家康公が、豊臣家を(祭祀を司る家だけを残し)子々孫々に至るまで、400年ほど前に打ち滅ぼしておきましたので、ご安心ください。

 

2016年12月28日水曜日

百済王の子孫②

 前回の記事の続きというか、補完です。前回は話がそれてしまいましたので。

 本当はKの国にちょっと文句を言いたかっただけです。”日王”って書くな、せめて”百済王”って書けとか。 でも、Kの国の自国の王の扱いを調べてみて、これは無理だと思いました。李源殿下、かわいそうすぎるだろう。

 もう一つは、韓国併合のことでKの国はグダグダ言っています。謝罪、賠償しろとかね。実際のところ戦後に条約をもう結んであるのでその件は終わっているはずなんですが(調べてみてね。)、あんまりいうなら、こっちは1350年前のことを出して言ってもいいんじゃないかなあ。韓国併合は新羅が百済を滅ぼした”恨”でやったんだと。取りあえず、百済王に領地を返してもらってから話し合いに応じようとか。今上陛下は正統な百済王の末裔なんですからOKでしょう。

 これは想像にすぎませんが、もしかしたら、天皇家には高句麗王家の血統も入っているかもしれません。大陸の高句麗王家は絶えているようです。そうすると、高句麗王の称号も天皇家は持っているかもしれません。

 Kの国の人たちは天皇家に朝鮮王家の血統が混ざっていることで喜んでいますが、天皇家は世界の多くの国に認められた日本という国が1500年以上にわたって承認し続けている王(皇)家なのです。拡大解釈をすれば、今上陛下は朝鮮半島に現在でも領主権をお持ちなのです。当然、その領土の臣民はその地の王を崇敬するのが義務であり権利であります。(王家をお持ちの国々の方には常識ですが。)新羅の初期領地以外にお住いの一般人の方は天皇家を崇敬してくださいね。百済・高句麗王家でもある天皇家の台所事情は少々苦しいので、献上はいくらでも受け付けられると思います。2020年に東京オリンピックもありますし1000億円くらいで結構ですので宜しくお願いします。


 

2016年12月27日火曜日

百済王の子孫①

 音楽の話もなくなってまいりました。単発ならまだありますけど、そんなの書く方も読む方もだるいし。まだ、ブログ始めて3ヵ月なのにもうネタが尽きてくるとは、週休2日にしても無理でしたね。何でこんなことになったんだろう、ストレイ・キャッツあたりからおかしくなりましたか。

 歴史タグ作ってしまいました。下調べが大変なので1行書くのに1時間以上かかったりします。過去サイトのネタも後で掘り返しておきましょうかね。3日分くらいはあるような気がします。中身はヨタ話なので、まともに信じないようにしてね。おかしいところがあったらコメントで叩いてください。

 まず、朝鮮半島の三国時代の話からです。高句麗、百済、新羅ですね。高句麗は大陸北方系の人たちが漢文化の影響を受けて成立した国だとされています。3国の中では1番力があり5世紀ごろには朝鮮北部を支配しました。下の地図は好太王時代(4~5世紀初)のものです。韓国の本からの引用らしいですけど、高句麗が三国時代を通して力があったのは事実みたいです。


 次に百済ですが、呉、越人が建てた国だそうです。それから新羅が朝鮮の地元の国みたいです。新羅の読みですが「しらぎ」は蔑称になるため「しんら」とよむのが正式みたいです。滋賀県にある新羅神社の読みは「しんら」です。

 厄介なのが伽耶と任那です。どうやら小国の集まりらしく、任那はそのうち日本の支配下にあった国のようです。どうも、日本のクニと同じような有力豪族の集まりのようなものみたいです。ここでは「倭」の呼称は控えておきます。「倭」は漢民族から見て国家の呈をなしていない東の国すべてを指しているので、話がちょっとややこしくなるからです。日本は遺跡等から既に大和王権が成立していたようなのでもう日本と表記します。もちろん、まだ仏教伝来以前で、律令もないので、漢民族の王朝から見たら国家の呈は成しておりません。 

 んで、この5国の関係はどうかというと、100%敵対していたのは高句麗/新羅です。後はその時の情勢に応じて敵になったり、味方になったりしています。大雑把には百済/高句麗は割合友好的で、百済/日本は百済が臣従の形をとっています。日本の皇子が百済王になった例もあり、百済王朝と天皇家は縁戚関係にありました。では、百済は日本の配下だったのかと言えば、答えはNOで、当時の日本の内情を見て分かる通り、情勢によっては日本とも敵対し戦をします。おそらく、国内も一枚岩ではなく、結構内戦があったのではないかと思われます。

 6世紀から7世紀にかけて日本は内戦の果てに仏教を取り入れ東アジア風の中央集権国家へとなっていきます。おそらく、朝鮮半島の国々の方が先に変化していったと思われます。その後、高句麗が百済と手を組んで新羅を追い詰めるようになります。伽耶、日本はその流れに乗じます。

 ところが、7世紀の初頭に大陸で唐という大帝国が勃興します。高句麗、百済は唐から強い圧力を受けるようになりました。 ここで新羅は起死回生の一手に出ます。唐の属国になることを条件に唐と手を結ぶのです。拡張期の唐の勢いはすさまじく、百済は660年に滅ぼされます。日本と百済の同盟軍は663年に白村江の戦いでボロ負けし、高句麗は668年に滅ぼされます。

 新羅は百済、伽耶、高句麗の旧領を得ます。そして、当初の約束を守り、徹底的に国内を唐化し、唐の属国となります。えらいですね。今のKの国の人とは大違いです。 適当な地図が無かったので、7世紀後半の地図をのせておきます。渤海は高句麗の末裔又は高句麗支配下氏族がたてた国であるそうです。朝鮮半島の王朝はその後もこの路線を堅持し李氏朝鮮にまで引き継がれます。
 あっ、竹島/独島が新羅領になってますね。于山国は鬱陵島のことです。本来の竹島の位置は赤マークのところです。東海とか書いてるし。ちょっとセコすぎるんじゃないでしょうかね。ちゃんと位置も把握できていない島を領土とか言っても話になりませんよ。
  朝鮮半島にいた、百済、高句麗の遺民、王族、新羅の新政策に弾かれた新羅の民は日本に逃げ込みました。日本は唐の侵攻に備え臨戦態勢を取ります。(上は水城跡。)リーダーシップが取れないと判断された天智天皇は暗殺され、その後律令制を取り入れた強力な中央集権の軍事国家としての道を進みます。

 そして、百済の亡命王族は、もともと縁戚関係のあった天皇家と一つになります。つまり、今の天皇家は天照大御神の末裔であるとともに百済王家の末裔でもあるのです。天皇家と古代朝鮮系王朝に関係があることは今上陛下もお認めになっています。今上陛下は大日本帝国天皇と百済王の称号をお持ちであると考えても差し支えないと思っています。イングランド国王がスコットランド国王の称号をお持ちであるのと一緒ですね。
 ここで、現在の朝鮮半島を考えてみましょう。朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国があります。そして、皇帝(エンペラー)が約二人、王(キング)が一人います。皇帝の一人目は今上陛下です。大日本帝国天皇と百済王の称号をお持ちです。王は朝鮮民主主義人民共和国の金正恩元帥であります。北朝鮮はどう見ても近代国家の皮をかぶった封建国家にしか見えません。金正恩元帥は実質”王”であると私は考えております。金正恩元帥は領導者という称号をお持ちです。

 

 では、もう一人の皇帝はというと、大韓帝国皇帝と朝鮮国王の称号をお持ちの李氏のご子孫です。直系の李玖殿下は2005年に亡くなり、李源殿下が正式に養子となり後を継ぎました。ところが、李源殿下の叔母の李海ウォン()殿下が30代目の継承を主張されて、今跡目争いの最中であります。普通に考えたら李源殿下は、養子とはいえ大韓帝国初代皇帝である高宗の曾孫だし、こちらのほうが正当性があるように思いますがねえ。(王家としてまだ大韓民国に認められておられないので失礼ながら敬称を殿下にさせていただきました。)

  なんか、閔妃暗殺と日韓併合で李氏朝鮮が滅んだので、日本が李氏を滅亡させたみたいになってるけど、日本はちゃんと李氏の子孫を皇族として待遇しているんだよね。本当に地位剥奪をしたのは、終戦時の連合軍です。

 それで、李氏の朝鮮国王の地位を復帰させるのは、大韓民国の国民と政府の権利であると思います。日本は関係ありません。タイの国王は第二次世界大戦後に、それで復権を果たしておられます。北朝鮮の新王朝に遠慮する必要はないと思います。 李源殿下は今アパート住まいだそうです。ちょっとは何とかしてやれよと思います。
 

 


 

 


 


 

 

2016年12月26日月曜日

Queen

  MTVやインターネットの無い時代、洋楽の情報は雑誌やラジオの洋楽番組から入手するしかなかったのですが、その頃の雑誌やラジオのパーソナリティは気合入りまくりで、注目の新人や、業界の噂話に至るまでコアな情報をたくさん送っていました。そのため日本の洋楽ファンは自然と情報通になり、アーティストの本国でブレイクする前に日本で売れ始めたアーティストもいます。

 Queenもそういうバンドだったようです。本国ではDeep Purpleの亜流で複雑で分かりにくいとか、メロディーが女子供向けととか酷評を受け、Sheer Heart Attackが出るまで、なかなか人気が出ませんでした。日本ではまず Queen IIで火がついたようです。今でも古いファンは2ndが最高だと言います。それから、Queenのメンバーは皆ルックスがいいこともあって女性ファンもたくさんいたようです。

 初期のQueenは多重録音でオーケストラのような音を作っており、それが売りだと言われています。しかし、それは既にZeppelinがzepⅢ、Ⅳで高いレベルで実現していたと思います。

 またまた、超個人的意見を書かせてもらいます。 
 私が聴いた中では(クラシックを含め)、独創性という点でQueenの右に出るミュージシャンはないと思います。Queenの作る曲はとにかく”変”なのです。たまに普通にいい曲があるなと思ったら、常識人のロジャー・テイラーの作曲だったりします。

 前期の大ヒット曲 Bohemian Rhapsodyを聴けば良く分かりますが、構成も音も何もかも”変”です。これに比べたらピンク・フロイドの方がよっぽどマトモです。普通なら聞くに堪えないものになるはずなのに、聴かせてしまうのです。

  良く言えば、Queenの作る曲のほとんどは分類不能で、Queenだとしか言いようのない曲ばかりだと思います。
 私の記憶に残っている、Queenの”変”な事件と言えば1980年のThe Gameの発表でしょうか。

  1980年と言えば、日本ではYMOのライディーンの大ヒット、アメリカではジャーニー、ヴァン・ヘイレンがヒットし、HR界ではozzyのBlizzard of OzzのようなHMの台頭やキーボードを多重フィーチャーした曲が多くなってきたころです。Zepのジョン・ボーナムが亡くなり、Queenは名実ともに世界No1のロックバンドになりました。

 私の周りでもロックファンはQueenが次に、どんなアルバムを出すか注目していました。
 そこで、これです。 カバーはOKですよ。でも、入ってる曲が....。

 いや、曲が悪いわけではないのです。全米で410万枚売れましたし、シングルカットのCrazy Little Thing Called Love/Another One Bites The Dustは700万枚以上売れ、全米No.1を獲ってますし。

 でも、なぜ?、今?、その方向に行く? 昔からのファンはみんな困惑しました。
 その後、 Hot Space、The Works、A Kind of Magic、The Miracle、Innuendoとなんかグルーっと大回りをして、1995年、フレディ・マーキュリーの死後、名盤 Made in Heavenが出ます。


 もう、Queenの新曲を聞くことはできません。本当に残念なことだと思います。










2016年12月24日土曜日

Show用の蠍団(Scorpions)

 大分音楽ネタもなくなってきました。ブログネタ今年いっぱい持つのでしょうか。ツバキが咲くまで空白になったりして。

 蠍団の日本デビューは In Trance(3rd アルバム)からなので1975年です。その頃の日本の洋楽ファンは結構耳ざとく、すぐに人気が出て、2ndアルバムの国内版が発売、1976年Virgin Killer、1977年Taken By Force、そして1978年に初来日しました。中野サンプラザでのコンサートは日本のファンの間では伝説となっています。「Hello、Konbanwa! Ogenki desuka?」で始まり荒城の月がフューチャーされています。

 
 来日したころはもうアメリカやイギリスでも売れ始めていましたが、本国ドイツ以外で最初に売れた日本のファンにサービスをしてくれました。前期 Scorpionsの唯一のLiveアルバムがTokyo Tapesです。

 そして、ギター道を極める為 Uli Jon Roth(G)が脱退、Matthias Jabs(G)を迎えて後期 Scorpionsが始動しました。

ところで、Scorpionsのリーダーのルドルフ・ シェンカーとマイケル・シェンカーは兄弟です。最初期のScorpionsにはマイケル・シェンカーもリードギターとして参加していました。UFOのギタリストが、ドイツツアー中に失踪した時、前座のScorpionsのマイケル・シェンカーが急遽代役を務め、その後正式にUFOからオファーがありマイケル・シェンカーはUFOに入りました。なんか、マイケル・シェンカーの最近のインタビューがありましたので引用します。 

『Gigs And Festivals』のインタビューでスコーピオンズ時代について問われた彼は、こう話した。

 「いまになって、わかったことがいくつかある。当時のスコーピオンズのことで、兄にはすごく失望しているって言っておかなきゃな。あの時代、正しくないことがたくさんあったってことに気づいたんだよ。俺は、ほかの連中より7歳若かった。だから、最初からいいように利用されていたんだと思う。」

 「俺はアルバム『Lonesome Crow』のほとんどの曲を書いた。でも、メンバー全員の名前がクレジットされた。俺が初めて書いた曲は「In Search Of The Peace Of Mind」だった。これもメンバー全員がクレジットされた。俺は音楽に専念していたが、彼らはビジネスに専念していたんだろうよ。どうだかわからないけどさ。でも、あの時代、彼らは曲の作り方を知らなかった。」

 また、スコーピオンズが活動を休止する前に、彼らとの共演はあり得るかと問われると、こう答えた。「興味ない。俺は自分のことに専念している。うんざりなんだ。彼らには失望した。」

 「数週間前、スコーピオンズの(アルバム・リイッシュー)ボックスを見た。その中にあったものに、俺は本当に本当にショックを受けた。彼らのことはもう信用できない。『Lovedrive』の話は間違っている。連中は、俺がスコーピオンズに入れてくれとせがんだって書いている。頼み込んできたのは彼らだ。当時すでに、俺はUFOとアメリカでアリーナ・ツアーをやってたんだぜ。信じられないよ。彼らに助けてくれって頼まれたんだ。『Lovedrive』のストーリーは彼らに都合よく書かれている。」
   「まったく、信じられないよ。あいつら、みんなをおちょくっている。プレイするの辞めるって言いながら辞めない。永遠に続けているだろ。」

 兄ルドルフは、以前、マイケルとのコラボもあり得ると話していたが、いまの状態では難しいようだ。マイケルは、兄によく似ていると言われると、こう返した。「違いは、1人は演奏ができて、1人はできない(笑)。それで、どっちがどっちだかわかるだろうよ。それか、目を見てみろ。彼の眼はブラウンだ。でも、彼はブルーのコンタクトレンズをつけることで、ごまかせるな。ラドルフはヴィジュアル面でのエンターテイナー、俺はアーティストだ。」

 相変わらず、ルドルフに悪口を言ってます。よくあることなのですが、ファンは結構ヒヤヒヤします。UFO時代にアルコールとドラッグで精神に異常をきたしツアー中に失踪を繰り返したのは誰でしょう。ちょっと辛辣になりますがLonesome Crowは駄作です。しかし、当たっている一面もあります。ルドルフ・シェンカーは、アーティストというよりはエンターテイナーなのです。
 蠍団のLiveは大物バンドの前座をやっている頃から熱く、後に控えている大物バンドをくってしまうこともしばしばあったそうです。常に観客を楽しませるLiveであることに全力を注ぎます。誰かのようにコンサートをすっぽかしたりしません。

 またScorpionsは時代を先取りしたようなアルバムを出せていないです。普通はこれくらいのバンドになると独自の方向性に向かってアルバムを出すのですが、なんか右往左往した挙句、平均の蠍団みたいなアルバムを出してきます。ただ、アルバムをいいものにしようとした努力のかいはあって、後で聴くとなかなかいい出来のアルバムがそろっています。

 ルドルフ・シェンカーは逸話というほどのものは何もなくwikiでも、マイケル・シェンカーの兄であることが最重要項目になっています。しかし、彼は蠍団を大事にしており、必要とあらば、キーボードを弾いたりとか、何でもやります。それに、彼は世界でも有数のリズムギタリストなのです。Uli Jon Rothや、Matthias Jabsのリードギターが冴えわたるのは、ルドルフ・シェンカーのリズムギターがあってこそだと思います。
 今、蠍団のディスコグラフィをそろえている所なのですが、ここまで聴いた中で私の気に入ったアルバムをいくつかあげておきます。Fly to the Rainbow、Taken by Force、Blackout、Crazy Worldといったところですかね。Scorpionsについてはもうちょっとアルバムが集まったらまた書こうと思います。

 


2016年12月22日木曜日

Deep Purple & Rainbow

 もう表題でお分かりでしょうがRitchie Blackmoreです。Deep Purpleは70年代HRの代名詞として有名なバンドです。Highway Starをはじめ、数々の名曲を残しています。ギター初心者が必ず弾く曲Smoke on the WaterもDeep Purpleの曲であります。

 
 1975年にリッチーが脱退して作ったバンドが Ritchie Blackmore's Rainbowです。有名な曲は、えーと何だろう、Kill The Kingかな。リッチーが脱退したため、 Deep Purpleは空中分解しました。

 1984年にDeep Purpleは再結成されました。Rainbowはリッチーのワンマンバンドだったので、今度はRainbowの方が解散を余儀なくされました。

 Deep PurpleもRainbowもメンバーの入れ替わりが激しく、Deep Purpleは9期、Rainbowはアルバム毎にメンバーの入れ替わりがありました。Deep Purpleについてはジョン・ロード(key)とイアン・ペイス(Dr)の功績も大きいです。バンドの牽引役はリッチーでしたが、リッチーのワンマンバンドにDeep Purpleはなりませんでした。

  今、wiki見てて思ったのですが、1994年から2014年まで20年間Deep Purpleは1回しかメンバーが変わっていません。リッチーいない方が安定してるじゃん。

 リッチーについてはあまり語ることはできません。一応 Deep Purple in RockからStraight between the Eyesまで聞いているはずなんだけど、あんまり覚えてないです。カセットテープは今でもあるけど再生機器がありません。スタジオ録音のCD買ってないんだよね。持っているのはLive盤ばかりです。前期Deep Purpleは特にコンサートが熱狂的で、シンガポールかマニラで死んだ人が出たとか、興奮したファンが会場を燃やしてしまったとかいう噂が昔は流れていました。実際 Live in Japanを聞くと、スタジオ録音とは差がありすぎて、スタジオ録音盤を聞く気になれないほどです。


 それから、リッチーの奏法の特徴として、4連、8連を多用してあまり3連を使わないことや、クラシックの曲からメロディラインをパクってること、スキャロップド指版のストラトキャスターを使ってることぐらいしか知らないです。スキャロップド指版はけっこう弾き易いです。チョーキングとビブラートがすごく楽です。ただし、こればっかり弾いていると他のギターが弾けなくなります。


   あとは、日本でDeep Purpleというと、王様です。

  you tubeで”王様”で検索をかけるといっぱい出てきます。

 1995年デビュー。深紫、鉛の飛行船、虹、カブトムシ、鋼鉄(HM)などなど。高速道路の星はあんまりにもそのまんまなので、何回聞いても笑ってしまいます。HRの歌詞っておバカです。

 深紫以外は結構王様流に奏法のアレンジをしてあるので、 オリジナルと聞き比べるのも面白いです。

 

 

2016年12月21日水曜日

HMはいつ出来た?(Michael Schenker)

  ヘヴィメタルというジャンルは、いつできたのでしょうか?パンクについてははっきりしていてSex PistolsThe Stranglers以降、特にSex Pistolsの登場がパンクムーブメントの元になったと思っています。


  HMはよく分かりません。田舎住まいの私にとっては、いつのまにかできていたという感じです。気が付いたら今までHR(はあど・ろっく)と呼んでいたバンドがHM(へびい・めたる)になっていました。イメージとしては Iron Maiden、Judas PriestのKilling Machine、Ozzyのソロ以降かなあ。今ではスラッシュとかHMも細分化しているけど、初期は全体的に明るいイメージがあるんだよね。


 Black Sabbathがヘヴィメタルの源流だと書いてあるとこもあるけど、それってBBC制作のドキュメンタリーの影響じゃないかなあ。ブラック・サバスは、ただただ暗くて重いだけのHRだと思います。

 日本でヘヴィメタルという言葉を広げたのは伊藤正則だと思っています。渋谷陽一は当時そんなこと言ってなかったように思います。
 さて、HMギタリストとしては、有名なマイケル・シェンカーですが、本人は「自分のやっているのはHRで、HMじゃない。」とはっきり言っております。(どのアルバムだったか忘れましたが、ライナーノートに書いてありました。)まあ、HMなんて言葉が出来る前から今までスタイルは変わってないですからね。楽曲の方向性は変わってはいないとかそういうことが言いたいのだと思います。

 ペンタトニックスケール基本のオーソドックスな弾き方ですが、半音や3連の使い方がうまく印象的なソロを弾いてくれます。私の昔から好きなギタリストの一人です。なんか、wiki見たら”神”とか書いてありましたけど、”神様”はエリック・クランプトンじゃないのか?そのエリック・クランプトンもジミヘンには「君はベースに転向した方がいい。」とか言われたそうで....。

 一応、天才ギタリストとされていますので、気まぐれです。ドラッグに溺れたり、コンサートすっぽかしたり、バンドメンバーと喧嘩してバンドを空中分解させたり、ロックギタリストがやりそうなことは一通りやっております。やってないのは、故意に楽器を破壊することと、ドラッグやアルコールで心臓を止めてしまうことくらいですかね。ステージ以外では控えめだったジミ・ヘンドリックスと大違いです。ちょっとは見習えよ。でも最近は、年のせいか、そういうのも減りました。 

 マイケル・シェンカーといえば黒白ツートーンのフライングVです。ギブソンのにこだわってるのかと思っていたら、ディーン(楽器メーカー)から供給を受けるようになったらディーンのフライングVに乗り換えてしまいました。機材自体にはあまりこだわりが無い人だとは思っていたけど、ここまでとは....。

 フライングVモデルは私が今でも欲しいギターの一つです。ギブソンのは触ったことがありませんが、とにかく重量が軽く、ネックシェイプが弧ではなく少しおにぎり型になっていたと思います。

 ギブソンのオリジナルはナチュラル仕上げなので、色はリフィニッシュしたいところですね。大昔スティーブ・ルカサーの使っていたアイバニーズのタイガーストライプ メイプルトップ+フローティングトレモロのもかっこいいです。

 今ネット価格見たら意外と安いですね。ルカサーモデルは100本限定だったので100万位するのかと思いました。上はギブソンのMSV650、下はトレモロがついていませんが、IBANEZ Rocket Roll 2の画像です。かっこいいですね。


いや、もう弾けも買えもしないギターの話はやめておきましょう。

Ibanez flying V

 ところで、マイケル・シェンカーのファンとして困るのはディスコグラフィーを追うのが難しいということです。この人はちょっと目を離すと、どこで演奏しているか分からなくなってしまいます。今はインターネットで情報を簡単に追うことが出来ますが、昔は大変でした。

 スコーピオンズ→UFO→スコーピオンズ(LIVEのみ)→行方不明(麻薬中毒の治療をしていたらしい。)→ザ・マイケル・シェンカー・グループ→マッコリー・シェンカー・グループ→UFO→マイケル・シェンカー・グループ→マイケル・シェンカーズ・テンプル・オブ・ロック←今ここ、と簡単に書いてもこれだけあります。また、Thank you というソロアルバムを途中で出して、味を占めたのか、これのシリーズもあります。その上、いろいろなミュージシャンとセッションアルバムも出しています。まだ全部揃えられていません。それにPCのMUSICフォルダーがぐちゃぐちゃになるのでやめてほしいです。

 それでは、ここで私が聴いた中でのベスト・アルバムを紹介おきましょう。 マッコリー・シェンカー・グループ時代のMSG(1991年)です。MSGというアルバムはザ・マイケル・シェンカー・グループ時代にも1枚出していますので注意しましょう。

 このアルバムはマイケルがちょうどドラッグを断っていたこと、ロビン・マッコリ―が作曲にかかわっておりバンドとして脂ののった頃であったこと、アンプラグドブームの直前でアコースティックギターをフューチャーしたことで、非常に完成度の高いアルバムになっています。ラストのNever Ending Nightmareがめちゃくちゃかっこいいです。もうこんなアルバムは出ないでしょう。

 あとのアルバムは、まあ、ギター弾きかファンでないと厳しいかもです。つけ加えておきますと、名曲 Into the Arenaは The Michael Schenker Group (1980年)に入っているのよりWritten in the Sand (1996年)でリテイクしたものの方が良いです。



2016年12月20日火曜日

ネギを植えました

 お墓の掃除が終わってから、時間が余ったので、女房から実家から送ってきたネギを植えろとのご下命がありました。えー、もう今度は植える場所を開けないといけないんですけど。いやだったら女房が自分で適当に植えると言われ、しょうがないので少し頑張ることにしました。


  10年以上にわたって、あちこちに適当に植えたネギの株は夏の終わりに1ヶ所にまとめてあります。phase3をした場所ぎりぎりだったので、新たな株を植えるにはphase3で場所を広げなければなりません。先日の寒波で雪が降り土が重くなっているのでやりたくなかったんだけどなあ。

 とにかく、掘りあげます。最下層まで行かず20~30cmの掘りあげで済ますことにしました。コムラサキの傍までやっておきたいけど、時間もありません。

 日が暮れるまで2時間しかありません。掘りあげを途中で置いて、フルイかけにかかりました。土が重く、フルイもすぐ詰まってきます。でも、ドクダミの地下茎がごっそりある場所もあるのであまり手を抜けません。

  なんとか、phase3を終えました。収穫はバケツ半分です。日当たりのいい場所のせいか地下茎がかなり太いです。あと、40分残っています。

 ネギの苗(?)を準備します。 要は残った根っこの再利用であります。これ、細ネギじゃなくて普通の長ネギじゃないのか? まあいいや。

 畝を作るため、土を足します。まず堆肥入り腐葉土と、ベントナイトを混ぜます。計算して計量している時間はありません。腐葉土だと肥焼けすることもないので適当にいきます。
先日、シャクナゲの植え替えで出た残土を混ぜていきます。これも量は適当です。どれも、pHは中性であることが分かっているので、pH測定はしません。っていうか日が陰ってきました。急がないとまずいです。

  現場でさらに土を混ぜ、少し深めに植えます。思ったより少なかったなあ。あとは、水ぎめをして終了です。16時45分終了、日没に間に合いました。少し広めにphase3ができたので、キキョウの宿根を植える場所も確保できました。ここはあとコムラサキの際だけやればOKです。
 今年は1年を通じてネギの観察ができました。来年は花をきっちり取って、ネギアブラムシに注意して、うどんを食べるときに自家製ネギを入れられるといいなと思っています。

 去年は、花が落ちるまで観察してました。花が落ちると一旦株全体の葉(?)が落ちてしまうようです。