2011年3月11日に日本は日本海溝の広域で発生した地震で多大な被害を受けました。地震自体も(M9.5)かなりのものでした。1995年の阪神大震災以降、耐震建築の普及により、地震直接の被害は少なかったのですが、未曽有の津波の被害を受け、東北から関東北部に多大な被害を受けました。
一応日本では、台風の被害が多いのでその当時には3m以下の高波には完全に海岸線を守る防波堤が完成していたのですが、数百年に1度と言われる津波の威力にはなすすべもありませんでした。波高の高いところでは20m以上にもなりました。
被害のひどいところでは、自治体の中心の役所自体が流されてしまい、どうしようもないところも多くありました。
福島第一原子力発電所は、日本で最初期に開発された原子力発電所で、10m以上の津波の被害をもろに受け、電源喪失でメルトダウン事故を起こしました。
一応その後に開発された、第一原子力発電所に近い福島第二原子力発電所ではシャットダウンに成功しており問題はありませんでした。さらに東北電力が管轄する最新の女川原子力発電所では20mの津波に襲われたのにもかかわらず、シャットダウンに成功しており、電源喪失を免れました。
日本政府の対応は少し遅れました。広範囲に被害が拡散していたので、情報収集が十分でなく、迅速な行動ができなかったのです。これはある程度仕方のないことだと思います。東日本の海岸線のほとんどの地域で津波の被害を受けていて、津波の発生から被害が発生するまで時間的余裕はありませんでした。北海道から東京湾まで津波の被害を受けていました。
一番まずかったのは、災害救助の主力である、陸軍の駐屯地が津波の被害をもろに受けた事です。出動態勢を整えたところで、津波に襲われる駐屯地もあったようです。空軍の松島基地では同基地に駐屯する米軍に避難勧告をするのが精いっぱいで、保有機も滑走路も津波に流されました。
三沢などの空軍基地では地震発生直後から被害状況の確認のために、スクランブル発進で偵察機を発進させていました。被災映像とともに隊員たちの悲壮な事実を伝える音声が今でも耳に残っています。
日本海軍は即座に行動を開始しました。被災地である東北地方に展開するには海上だと数時間はかかるからです。軍法会議にかけられる可能性も無視して、当時の現場の最高司令官と地域最高司令官は、行動可能な艦艇は即座に出港せよとの命令を下したそうです。横須賀港からは5分おきに出港する船舶が相次いだそうです。目的は被災者の救助です。支援は後回しにして、リミットの72時間以内にできるだけ被災者の救命にあたる心がけで出撃しました。
日本軍は長年実戦をしてきていないので、大したことは無いと国民にも思われていました。しかし、軍幹部は日本国民を守るべく、援助要請前に動いていたのです。これは、完全に違法なのですが、政府も国民もこの軍の行動について、後で一切批判をしていません。
日本政府はこの後、国防上どうしても必要な軍だけを残し、10万人の軍を招集し事態解決を図りました。警察、消防、海上保安庁も全面的に協力をしました。
しかし、災害の規模が大きすぎて、日本人の自助努力だけではどうにもなりませんでした。そこで、思わぬ方向からの支援があったのです。
それはアメリカ軍の Operation Tomodachi でした。3.11の災害発生時点で既に在日アメリカ軍は行動を開始しており、3月11日の当日中にアメリカ政府は日本に支援を申し入れ、日本政府の要請により、支援が開始されています。
米韓合同演習のために西太平洋を航行中であったロナルド・レーガン空母打撃群は、本州東海岸域に即座に展開、震災翌々日の3月13日には海上自衛隊災害派遣部隊との震災対応に関する作戦会議を実施をしました。
この作戦では、アメリカ海軍・海兵隊・空軍が連携し、統合軍の形態を執って活動しています。作戦には2万4000人の将兵、190機の航空機、24隻の艦艇が参加しました。3月25日からは在ハワイの常設司令部組織JTF-519が横田基地へと移動し、統合支援部隊(Joint Support Force)として指揮を執ったそうです。
空母打撃群は自らの艦載ヘリコプター(HS-4部隊)のみならず、自衛隊のヘリコプターのための洋上給油拠点として運用され、空母「ロナルド・レーガン」の将兵からは毛布やセーターなど1,000着以上の寄付が行われているほか、強襲揚陸艦エセックスの乗員からは、玩具が寄付されました。
厚木海軍飛行場を基地にしている海軍航空隊のヘリコプターは、津波発生直後から捜索救難活動に投入され、その後は食料などの救援物資を運んでいます。
ミサイル駆逐艦「マッキャンベル」および「カーティス・ウィルバー」の艦載ヘリコプターは、地震発生後、房総半島において捜索救難活動に投入されています。
揚陸指揮艦「ブルー・リッジ」は、地震発生後、寄港先のシンガポールにて急遽予定を変更し、救援物資を積載して日本へ向けて出航しています。
ドック型揚陸艦「トーテュガ」は、北海道から陸上自衛隊の車両90台・人員500名を乗せて本州へ向けて輸送を実施しました。
マレーシアに在泊していた強襲揚陸艦「エセックス」とドック型揚陸艦「ジャーマンタウン」は、第31海兵隊遠征隊を乗艦させて、途中洋上にて貨物弾薬補給艦「マシュー・ペリー」から救援物資を受け取りつつ北上しました。
福島第一原子力発電所からの放射能が懸念されたため、当初日本海に展開していましたが、後に津軽海峡を抜け太平洋岸へ機動しました。エセックス艦内で行われたインタビューに対し、ジェフリー・ジョーンズ海軍准将は「先遣隊も今回の部隊も皆、志願者だ。艦内放送で呼びかけたが、定員を確保するのに、10分もかからなかったよ」と、その士気の高さを語っています。
アメリカ軍が総力を挙げて支援したのは、北日本のハブ空港の仙台空港の復旧でした。まずは、航空自衛隊の松島基地を最低限の管制を行えるようにしました。
そして、陸上から仙台空港に向かい、機能回復まで6カ月はかかると思われていた仙台空港を
救援拠点として活用すべく、アメリカ軍の即応態勢でもって、短期間に復旧したのです。
ちょっと大げさですが、日本は第二次世界大戦の敗戦で、アメリカ軍のすごさを体験しました。大戦を知らない我々の世代において、アメリカ軍のすごさを実感させる出来事でした。
この作戦により、個々に少数孤立した、避難所への物資の供給が迅速に行われました。日本軍だけではそこまでできたかどうか分かりません。
Operation Tomodachi に対しては日本はささやかなお礼しかできませんでした。 Operation Arigato です。被災された方々がアメリカ軍の援助に対し、航空機侵入海岸線に”ありがとう”と流木で書いたのです。
日本人のほとんどは Operation Tomodachi によって示されたアメリカ軍の好意を忘れてはいません。誠意をもって対応されたら、誠意をもって返すのは日本人として、いや、先進国に住まう人間であればでは当たり前のことでしょう。
第二次世界大戦中、太平洋は死の海でした。その後アメリカと、日本で同盟を結び、太平洋は平和な海になりました。太平洋に面する国家も多く協力してくれています。個人的な意見ですが、太平洋の平和を乱す国家に対しては、協力して太平洋の平和を守っていくべきだと思っています。
PS. 本来なら ここで台湾が行なってくれた厚い援助に対しての感謝を述べるべきなんですが、安全保障上の観点からこの出来事を見ています。申し訳ありません。
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