はい、また酔っぱらっています。日本において武士の歴史を無視することはできません。ざっと800年も日本を支配してきた階級です。維新後もある程度軍隊に引き継がれて太平洋戦争敗戦までそういう倫理観は続きました。
侍う者、侍が生まれた直接的な原因は、平安朝廷が、蝦夷征伐の後に正規軍(軍団兵士制)を縮小、さらには廃止したことです。それ以前は豪族の血縁、地縁関係だった私兵が中心だったのですが、軍団制の廃止により、傭兵のような存在の侍が生まれます。ここでちょっと話はそれますが、その頃の武士は少人数で多種多様な任務をこなさなければならなかったので、重装弓兵という世界に類を見ない存在になっていきます。弓といえば英国のロングボウ兵が有名ですが、日本には竹や漆という材料があったため、馬上で大鎧(40kg以上あったらしいです。)という重装備で、強弓を放つというとんでもない、”つわもの” になっていきました。蒙古襲来の時には戦術の違いもあったので、一旦は攻め込まれますが、上陸した蒙古軍を蹴散らし、船上に押し返したので、蒙古軍は嵐にやられてしまいました。ちなみに2回目の襲来の時、世界最強と言われた蒙古騎兵もやってきますが、防御力、弓の射程や強度が段違いだったので、鎌倉武士団に一蹴されたそうです。馬上で弓を放つのは蒙古軍の十八番のようですが、現在でも流鏑馬という技術が日本では引き継がれています。鎌倉期にはフル装備でやっていたのですごいことです。
またちょっと話はそれますが、日本の騎馬武者の装備に母衣というものがあります。これは旗指物などと同じように自軍の存在を示すものですが、流れ矢を防ぐ目的もありました。馬を疾走させるとこれが膨らんで矢の勢いをそぐ効果があります。なにしろ武士の持っている強弓は大鎧をぶち抜くため無茶苦茶強くしてあります。現代和弓の強弓は25kgw以上、英国のロングボウが45kgwで、日本の武士の強弓はその貫通力から100kgw以上あったのではないかとも考えられています。
そのころの武士は潔くて、地獄必定、一所懸命という精神でした。勝つためには手段を選びません。親兄弟だろうが敵になったら本気で戦います。それが彼らの名誉でした。源義朝が騙されて風呂場で殺されますが、油断した源義朝が悪いみたいです。太田道灌なんかも風呂場で殺されていますが、襲った曽我兵庫は特に非難はされていません。
戦国期まで下ると、もう何でもありで、負けたらOUTみたいになっていますが、集団戦で兵の動員数が増えた為、いろんな手を尽くして兵員を集めています。大多数の兵は基本は農民だったりして、侍の矜持みたいなのはありません。死んだら極楽浄土に行くため南無阿弥陀仏とか唱えて突撃したりとかしていたらしいです。
幕末まで下ると、武士は大義名分(イデオロギー)のために戦うようになります。一番極端なのが、徳川慶喜で賊軍に指定されたとたんに負けを認めてしまいました。まあ、そのおかげで内戦が少なくて、諸外国に付け入る隙を与えなかったのは僥倖であります。この辺りは大日本帝国の陸海軍にも受け継がれて、皇軍であるという大義名分のもとに戦うことになりました。 その後、太平洋戦争に負けて、アメリカに占領されましたが、これはラッキーだったというしかありません。アメリカは日本とは違いますが、独自の倫理観や道徳観を持つ国だったからです。50年もの同盟関係で両国でかなりの信頼関係を築くことができています。
では、現在の仮想敵国はどうでしょうか、中国は文化大革命で何もかも破壊した後、何も築き上げていません。旧帝国時代よりひどくなっています。北朝鮮は、うん、話になりません。ロシアはソ連崩壊後にましになったと思っていましたが、ウクライナ侵攻で、旧ソ連(恐怖政治国家)以下になっていることが実証されてしまいました。
つまり、これらの国々は、ユーラシアを恐怖に陥れたモンゴル帝国と大差がないということです。日本を守るには、大義名分なんか役に立ちません。ここは原点に立ち返って、地獄必定で圧倒的な力をつける必要があります。侍が800年もの間、令外の官だってことも忘れてはなりません。憲法改正が必要かなんて考えている余裕はないかもしれないです。拡大解釈で現実に臨むべきかもしれません。
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