2016年12月29日木曜日

唐入り(文禄・慶長の役)

 日韓中共同研究では「壬辰戦争」と呼ぶらしいです。でも、Kの国では「壬辰倭乱」というのが一般的だそうです。乱だと内乱っていう意味になるから、侵略戦争じゃないよね。

 そういうくだらないことはどうでもよくて、この戦争は豊臣秀吉の明への侵攻計画の一環として始まりました。ちょっと調べるまでは、日本軍の悪癖で補給線を伸ばし切って、停滞したのかと思っていましたが、なにこれ、全然負けてないじゃん。

 文禄の役では局地戦で苦戦に陥っても、体制整えて反撃して、快勝の連続です。大将が討ち取られるような負け方は1回もしていません。釜山から高麗首府の漢城府(開城市)まで直線380kmを21日間で撃破、その後各方面隊に分かれて、朝鮮各道を制覇、朝鮮水軍も鼻緒戦で撃破して、最終の撤退まで、対馬海峡の制海権はとったまま、残った朝鮮水軍は船舶鹵獲のために各個撃破しています。李舜臣が大勝したみたいになってるけど、奇襲戦で何度か輸送船団に損害を与えていますが、水陸併用戦法に変えた豊臣軍に粉砕されてます。あとは1回も勝てていません。
 
 明軍と対峙しても情勢は変わらず、勝ち戦ばかりです。明軍の詭計にも速攻で対処し、明の遠征軍がほぼ全滅の憂き目にあっています。明軍の漢城府食糧庫焼き討ちで文禄の役の停戦に入っていますが、これ、基本的に秀吉の調子が悪くて朝鮮出陣できなくなったからだよね。国内情勢が不安定なため、豊臣軍は明と停戦協定を結び、一旦釜山まで引きます。
 翌年の慶長の役では前年度の経験を活かしさらに快進撃しています。漢城を明への侵攻拠点として、城郭の整備まで始めましたが、途中で秀吉が亡くなったため五大老から全面撤退命令が出ます。

 明と高麗は明本国軍も加え追撃戦を行いますが、全く勝てていません。反対に凄まじい損害を出しています。戦国武将たちの撤退戦が上手すぎます。最後に対馬海峡での海峡封鎖を明・朝鮮水軍が行います。島津水軍の正面突破はかなり苦戦しましたが最終的に李舜臣を含む多数の水軍幹部を討ち取り、制海権を確保しています。あと、詳しいことはwikiを見てください。

 当時の戦国武将たちが世界最強だったことは一応知ってはいましたが、ここまで強いとは思ってませんでした。これだけ戦えているところを見ると、兵糧と水の確保もちゃんとやっていたに違いありません。それがどれだけ重要か戦国武将たちは身に染みて知っていたと思います。大日本帝国陸軍みたいなマヌケなことはしていないでしょう。
 この戦役はwikiに記されている通り、勝者のいない戦争でした。豊臣軍は、明の攻略という戦略目標を達成できず、全面撤退命令によって、領地も確保できませんでした。明軍は戦術的に完敗した挙句、戦費があまりにかさんだため、国が崩壊しました。高麗軍は国中で蹂躙され、領土が確保できたのは豊臣軍が自発的に全面撤退したという理由だけです。

 歴史にifはないですが、もし、秀吉にちゃんとした後継者がいたら、間違いなく明の攻略は成功していたでしょう。少なくとも、朝鮮半島と大陸の一部は手中におさめていたと思います。
 さて、ここからが本題です。豊臣軍は朝鮮で残虐な行為を数多く行ったとされていますが、まあ、大体は本当のことだと思います。 なにしろ、そういうことは、内戦が100年以上続いた日本国内では当たり前に行われていたことばかりなのです。長い平穏に慣れた、高麗の人たちはびっくりしたことでしょう。付け加えておくと、おそらく明軍も朝鮮軍も似たようなことをある程度はしていたはずです。当時の戦争はそんなものでした。

 それから、この戦争の責任は全面的に豊臣秀吉公にあります。彼がもし、こんなことを思いつかず内政に傾注していれば、この戦役はあり得ませんでした。この戦役は日本にとっても大きな損失でありました。それで、高麗、明の人たちに代わって、当時の征夷大将軍徳川家康公が、豊臣家を(祭祀を司る家だけを残し)子々孫々に至るまで、400年ほど前に打ち滅ぼしておきましたので、ご安心ください。

 

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